明治・大正時代

1841年 松平家と田沼派が揉めた結果、大奥の勢力が混乱し第15代将軍慶喜が外部から招聘される。
1844年 周囲に反対を押し切り、徳川慶喜が大政奉還を行う
          1、中央集権の立憲議会制
               はじめの方は立憲君主制に近い
               琉球、蝦夷、アラスカ、南森だけは特別県として地方自治の比重を多くした
               1862年にこれらの制度は廃止したが、議員の数を多めに設定して不満がでないようにした
               →これらの制度はこれから同化政策をしていくうえで欠かせないバランス感覚になる
           2、官僚機構の整備
               基本的には江戸幕府で働いていた人間も使った
           3、四民平等
               選挙権は男子のみで税収に比例した重み
               のちにこれは”五民”平等になる(外地であろうと関係ない)
               ←これには批判を生んだが結局経済規模が違いすぎるので大きな不満にはならなかった
           4、統一貨幣制度と徹底した資本主義
               →共産主義への防波堤としての期待ものちになる
           5、教育制度の一本化、資格化
               女子教育はすでに世界一の水準
               最高級の研究レベル
               ←吉宗以来の実利学問の重視がいかされる
           6、近代軍隊の再整備
               旧士族が多かった、志願制で給料は高め
               のちに外地民のあこがれの職業となる
           7、信仰の自由
               神道、仏教、キリスト教、イスラム教、他の宗教が場所を問わず信仰可能となった
           8、移民の受け入れ
               この地方では唯一といっていいほど平和で豊かな国だったので移民が殺到した
               国民の反発はあったが政府レベルでは積極的に受け入れた
               ←3Kの仕事につかされることも多かった
               
1846年 日米和親条約を結ぶ
          アメリカとも国交を開く、太平洋での優位権を認める
           →アラスカが貿易中継地点として栄える


1851-58年 太平天国の乱がおきる
          雲南あたりに流れ着き、そのままミャンマーやヒマラヤインドにあたりを支配するようになる
           →アロー戦争の際に協力した日本軍は太平天国をひそかに支援
           ←第二次ビルマ戦争も同時発生していたので
           →この支配体制は国共内戦の時期まで続く


1856ー58年 アロー戦争
          清朝は再び日本に対し救助要請、新政府はこれに応じる
           ←イギリスはこれに対して日英中立条約の破棄
           ←フランスとロシアがこれを仲介しアロー戦争は回避
           アイグン条約で清のアムールをロシアが獲得
           天津条約でイギリスは清を開国させ香港を拡大した、フランスも海南島を獲得

1860-64年 ホロ戦争
          スールー王国やミンダナオ島のゲリラ勢力をイギリスと共に支援
           ←日英同盟を1863年に結ぶ(対ロシアで協力することを再確認、中国への不介入の確認)
           結局スペインにバレてルソン条約で葉山の割譲を求められる
           →同時にフィリピンの住民が日本に移住してくる

1866年 江華島事件
          フランスと共同でキリスト教徒の解放を名目に朝鮮を強制的に開国
           ←フランスはベトナムの保護国化の反対勢力を送り込み続ける清にダメージを与えたかった
           日朝修好条規を結ぶ
               対馬の宋氏が仲介役となって対馬諸島にいた朝鮮キリスト教徒などを引き連れ協力
               →朝鮮の近代化に彼らが大きな力となる

1868~76年 中央アジア動乱
          ブハラ、ヒヴァ、コーカンド=ハン国を保護国にしようとロシアが攻めるのをイギリスと清国と組んでやめさせる
           また東トルキスタンの動乱に乗じてイリ地方を併合しようとしたロシアを牽制
           →ハン3国はトルキスタンとして独立、東西冷戦でも緩衝地帯として機能
               一方で東トルキスタンは自治州として清国のままとなった
           →日本は見返りとして朝鮮を保護国化、福建省の利権を手に入れた
               これ以降清国は内部争いもあり急速に力を失っていく
               鉄道や鉱山をどんどん売っていく

1885年 フィリピンーアラスカ交換条約
          米西戦争後にアメリカが日本に打診しこれを受ける
           フィリピンにはハワイ、ミクロネシア、北マリアナ諸島が含まれていた
           →アラスカに残った日本人も多かった
               長期的に見ればアラスカの方が価値があったが、この時代にそれを見越すのは不可能だった

1886年 ロシアが満州国を独立させ保護国化する
          日本は反対しイギリスは警戒したが、どうにもできなかった

1890年 義和団事件
          清王朝が瓦解し、各地の有力者が中国分割に反対、ロシア、フランス、イギリス、日本が出兵することになる
               ドイツのビスマルクが各国の利害を調整した

1891年 ロシアの満州国併合
          これに対し日英同盟を結ぶ

1894年 ロシアの朝鮮侵攻を機に日露戦争が勃発
          劣勢ではあったが、血の日曜日事件などもありどうにか勝利
               東トルキスタンや西トルキスタンとイギリスを介して協力しシベリア鉄道を破壊
               バルチック艦隊も寄港の際に日僑達が間接攻撃し弱体化していた
           翌年のポーツマス条約で東清・アムール鉄道の使用権、満州国の再独立、アムールのナホトカ、ウラジオストクの譲渡に成功

1904年 オーストリア皇太子殺害事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発
          オーストリアがセルビアに宣戦布告
           ロシアがオーストリアに宣戦布告
               オーストリアがドイツに宣戦布告するように頼むも躊躇する
                   結局セルビアとロシアに対して宣戦布告(タンネンブルクの戦い、中央同盟国が勝利)
           フランスが露仏協商をもとにドイツに宣戦布告
               そのままアルザスロレーヌへ侵攻(ヴェルダンの戦い→塹壕戦の開始)
           兼ねてからドイツと行動を共にしロシアを敵視していたオスマントルコが宣戦布告(ガリポリ海戦)
               これに対しフランスが宣戦布告、エジプトを焚きつけスエズ運河付近を攻撃し始める(スエズ占領)
               イタリアもこれにより影から協力していたが、表に出て戦わざるを得なくなった
           フランスがベルギーに侵攻(リエージュ侵攻)
               イギリスもようやくフランス、ロシアに対し宣戦布告
           フランスがスペインに圧力をかけジブラルタル海峡を封鎖
           ペシャワール朝がイエメンに侵攻、バーブアルマンダブ海峡を封鎖
               イギリスはこれにより植民地への貴重なルートを失われる
                   エチオピアに参加を促すも断られる
           ズールー王国がケープ植民地に再び侵攻
               これに対しポルトガルもイギリスに宣戦布告
           フランス領コンゴがベルギー領コンゴに侵攻、西海岸の港を殲滅にかかる
               実際にイギリスは多くの補給地を失う
           
           ここまでは協商国側が主に海外植民地でイギリスに対し奮戦していた一方、東部戦線は中央国が有利な展開だった
           
           イタリアがトリエステに侵攻
               オーストリア対イタリアは長期化する
           ブルガリアがバルカン戦線に参入
               セルビア戦線の終結、テッサロニキに亡命政府を作る

          ここで中央同盟国側に大きく有利に傾くが・・・

          ペルシャがオスマントルコに対して参戦
               ホルムズ海峡も封鎖
               3B政策もここで崩壊し補給線が大きく断たれることになる

          この後に戦線は膠着するが補給線を断たれている中央同盟国側は対策を練る必要があった

          日本とアメリカ、北欧諸国に参戦を要求
               間接的に補助してくれることになったが宣戦布告はどちらもしなかった
           インドで大反乱が起き、ビルマは独立を宣言するなど大混乱
               植民地での運営は限界に近い
           ベトナムも日本に接近、東遊運動の留学生達を中心に独立を目指すようになる
               フランスも限界だったが、アフリカ大陸の植民地は健在だったために損害は少なかった
           
           ここでドイツが一世一代の大勝負、ヴェルダン作戦を決行
               成功間近にプルシロフ攻勢でオーストリアが壊滅、イタリア戦線以外はドイツに依存するようになる
                   ルーマニアが参戦しトランスシルヴァニア侵攻、オーストリアは領土を失うもすぐに奪還
               それと同時にオーストリア国内の少数民族がオリエント急行などをゲリラ的に妨害するようになり致命的に

1907年 ここまで日本のあまりの強国化を恐れていらイギリスは植民地の譲渡確約を渋っていたがここで方向転換
          桂・グレイ密約によりインドシナ半島の保護国化、アワフーズの譲渡ならびにアムール、シベリアの割譲を約束
               日本は万を持して参戦
                   まずは関係の深かったトルキスタンを焚きつけてペルシャとロシアに侵攻するように支持
                   次にインドシナ半島の植民地政策をやめさせフランス軍を撤退させた
               トルキスタンと連携をとってペルシャを撃退、ホルムズ海峡を開放
               次にはバーブアルマンダブ海峡を開放、イエメンやオマーンから歓迎される
               ジプチやソマリランドも攻略
               スエズ運河も奪還
               最終的にはジブラルタルも攻略する
                   これら一連の流れは中央同盟国側の救世主として讃えられ後のアラブ民族からの高評価にもつながっている
           
           そんな混乱の中ロシアで2月革命、10月革命がおき社会主義国家が形成される
               ロシアは当然戦線離脱
                   ウクライナが独立しルーマニアに侵攻、ルーマニア降伏
                   カフカス戦線や中央アジア戦線は完全に終了

          当然フランス、スペイン、イタリアは窮地に陥る
               イタリアはトリエステ侵攻やダルマチア侵攻を成功させるも領土奪還まではならず
               フランスも必死に攻撃するも西部戦線は崩壊、アミアンまで迫られ最終的には第三帝政は崩壊、共和政へ移行
               スペインはジブラルタルの敗北、グラナダ侵攻、ガリシア上陸などもあり降伏
       
1909年 ヴェルサイユ条約
              アメリカのルーズベルト大統領のもとで講和条約が成立
                   民族自決や賠償金、領土割譲なしでの講和条約が望まれていたが・・・
                   フランス
                       全植民地の放棄
                           アルジェリア、エジプトの独立
                           サハラ砂漠、海南島はドイツへ
                           ジプチ、インドシナは日本へ
                           ペシャワール朝はオスマントルコの保護国へ
                           コンゴはベルギーへ
                           太平洋諸島はドイツへ
                           パプアニューギニアはイギリスへ
                       フランドル地方はベルギーへ編入
                       アルザスロレーヌ地方はドイツへ編入
                   イタリア
                       全植民地の放棄
                           リビアはドイツへ
                           ソマリランドはドイツへ
                           ソマリアはイギリスへ
                   セルビア・モンテネグロ
                       マケドニアをブルガリアへ割譲
                       ボイボディナ、コソボの独立の承認
                           大ドイツ連邦の監視下でスロベニアを含めた南スラブ連邦の提案
                   ルーマニア
                       トランスシルヴァニアをハンガリーへ割譲
                       モルドヴァをウクライナへ割譲
                   スペイン
                       全植民地の放棄
                           モロッコはイギリスへ
                           西サハラ、カナリア諸島はドイツへ
                           カリブの島々、マジョルカ島はドイツへ
                           ジブラルタルの非武装化、ドイツとイギリスへ海峡の割譲
                   ポルトガル
                       全植民地の放棄
                           マカオ、アンゴラはドイツへ
                           マデイラ諸島、東ティモールはイギリスへ
                           ゴアは日本へ                        
                   ロシア
                       ロシア赤軍はすべての責任を白軍になすりつけ関係ないとしたが、各国の軍派遣により承諾
                           カフカスはトルコへ
                           ウクライナ、ポーランド、フィンランド、バルト三国、トルキスタン、シベリア、アムールの独立の承認
                   ペルシャ
                       トルコへカフカスの優先権を認める
                       トルキスタンの独立承認
                       アワフーズの独立承認→日本の保護国へ
                   ペシャワール朝
                       ペシャワール朝の解体、オマーン・イエメンの独立承認
                       クウェートはイギリスの保護国へ
                   オーストリア
                       戦勝国ではあったが、途中で国が崩壊したのでそれらを整理する必要があった
                           ドイツ人民の住む土地はドイツに合併
                               →大ドイツ連邦の復活
                           スロヴェニア・クロアチア・ボスニア=ヘルツェゴビナ、ハンガリー、チェコスロバキアの独立承認

          これらの条約は戦勝国にとってもあまり良い条件ではないと同時に敗戦国にとっても大きな痛手となり、第二次世界大戦を引き起こすきっかけにも

なる
              ドイツと日本の超強国化を引き起こす
               ソビエト連邦の割譲に対する反発
               フランスの大混乱
               スペインとイタリアのファシズムの台頭

1909-1912年 ロシアで赤軍と白軍の対決
              日本、イギリス、ドイツ、北欧連合軍、トルキスタン、トルコなどが軍を送ったが戦後まもないこともあり本気の軍ではなかった
               特に日本は最後までシベリアで抵抗を続けた
               →これはのちにシベリア民が日本へと味方をする遠因となった

1913年 中華民国の成立
              ←第一次世界大戦の軍需により経済が発展、また各国の軍も中国を支配する余裕がなくなった
               →しかし同時にモンゴル、満州、チベット、太平天国、東トルキスタンの独立を許す
                   トルキスタンと東トルキスタンは合併
                   チベットはシッキム、ブータン、ネパール、カシミールと合併、チベット仏教王国とする
                       イギリスは余裕がなくこれを傍観するが、のちに積極的に貿易する
                   モンゴル、トルキスタンは社会主義を採用し、ソビエトの支配下に置かれる
                       のちに東トルキスタンは脱退(1922)、西トルキスタンだけがソビエトの支配下に置かれる

1916年 東京夏季オリンピック・札幌冬季オリンピックの開催
              戦間期の象徴的なイベントとして語られる

1917ー26年 シャム王国と協力し、イリ運河の工事を始める
              ←イギリスはこれに反対する、ビルマに対して出兵するも衝突まではいかず

1904-24年 ヴェルサイユ体制による安定期
              軍縮会議がたびたび開かれ平和的外交が尊ばれた時代
           社会主義の台頭
               各国で社会主義が躍進、議席数を伸ばすことになる

1920年 オスマントルコ崩壊
              民族自決や社会主義の考えが優勢となりオスマントルコは瓦解
                   トルコ、シリア、イスラエル、イラク、アルメニア、クルディニアン、アゼルバイジャン、グルジア、オセチア、ダゲスタンなどが独立
                       シリア、イラクはドイツの保護化、イスラエルはイギリスの保護化、それ以外はソビエト連邦を形成した
                           これによりドイツ、イギリス、ソビエトが緊張化する    
                   またクウェートやアワフーズもこの時完全独立を要請し、やむなく日本とイギリスは許可する
                       ←イギリスは北海油田が発見されており、損害すくない
                       ←日本は損害大きかった            

  • 最終更新:2016-08-23 05:43:31

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