江戸時代

1767年 田沼意次が実権を握る
          貨幣経済を理解した経済政策
           重商主義政策
           火事対策
               瓦や鉄筋をつかった建物も作る
               火事止めを作る
           科学技術の保護
               新たな農業種の開発に全力をかけた
               栄養学などがここで発展し重要なものとなる
           インフラの整備
           北方探検植民隊を結成
               江戸の町の貧乏人や犯罪人をマンパワーとしてみてアラスカやシベリアを開拓させた。

1782-88年 天明の大飢饉
          吉宗時代から存在した災害対策書「吉宗計画」がうまくいく
           一時緊縮令も出され農民一揆は回避
           新たに生まれた品種により危機をのりきる

1791年 朝鮮で辛亥邪獄が行われる
          迫害されたカトリック教徒が大量に対馬諸島に押し寄せてくる
           これにより朝鮮政府と国交断裂
           →のちにフランスとの国交を結ぶのに大きな役割を果たす

1792年 礼文にラックスマンが来航
          日露通商条約
               ロシアとの交易をすることに決定
               200年以上ぶりに新たな貿易相手をえる
                   清、琉球、オランダに続く4ヶ国目
           ロシアとの交易はしばらく続くもナポレオン戦争中には下火に
           このころからシベリアにいた原住民が北海道に来たり、アラスカの屯田村に多くくることになる

1796-1804年 白蓮教徒の乱
          清朝はこのときに日本に助けを求め、これに応じる
           同時に農業技術を伝え、四川雲南地方の治安を安定させる
           →ビルマ戦争がコンバウン朝に有利に働いた理由

1808年 長崎砲弾事件
          ペリー船長率いるイギリス船がオランダ商船を拿捕、これに対抗する
           日英中立条約
               イギリスとも国交を開き他国との戦争の際には協力することも約束する
               アラスカとカナダの国境線の確定

1816年 カムチャッカ虐殺事件
          ロシア商人が日本開拓団を虐殺する事件が発生
           日露通商条約は破棄されシベリアでの優位権はなくなる

1820-26年 インドシナ戦争
          インドシナ半島がフランスの侵略を受けているという報告があり清とともにベトナムの統一王朝を支援、しかしフランスに敗れる。
           大東島ならびにフランス宣教師が多かった水俣島を割譲することに
           しかし、フランス系住民が説得してくれた結果、賠償金などは無かった。
           →フランスとも国交が結果的に成立            

1828年 官僚である田沼意往が暗殺される(桜田門外の変)
      →度重なる幕府の失敗ならびに西洋への危機感がましていった人民
           1、佐幕鎖国論
           2、倒幕鎖国論
           3、倒幕開国論
       の3つの派閥にわかれ現状の幕府を批判していった。
       2のグループは和宮が14代将軍家茂の正妻となる「公武合体」で1835年に現政権と合流
       1のグループは色々と鎖国にも幅がありものの結局は現行の田沼に反抗する松平家が中心
           最終的には伊勢の街で新撰組を結成し3を攻撃するようになり、最後まで戊辰戦争(1845-48)を行う
       3のグループが結局は政権をにぎることになる

1833~39年 天保の大飢饉
          吉宗計画は今回は機能せず、混乱に陥った
           ←幕府は清、オランダ、フランス、イギリスに穀物を送ってもらう
           さらに幕府の崩壊を後押しすることになる

1840年 清朝からアヘンの取り締まりの要請を依頼される
          イギリス中立条約を重視してこの時は無視
           ←これに対して倒幕派が東洋一致を掲げ批判
           →難民が清朝から押し寄せる
               しかし、日本のナチュラルドラッグがすでに市場にありそれほど被害は大きくなかった

1841年 松平家と田沼派が揉めた結果、大奥の勢力が混乱し第15代将軍慶喜が外部から招聘される。
1844年 周囲に反対を押し切り、徳川慶喜が大政奉還を行う
          1、中央集権の立憲議会制
               はじめの方は立憲君主制に近い
               琉球、蝦夷、アラスカ、南森だけは特別県として地方自治の比重を多くした
               1862年にこれらの制度は廃止したが、議員の数を多めに設定して不満がでないようにした
               →これらの制度はこれから同化政策をしていくうえで欠かせないバランス感覚になる
           2、官僚機構の整備
               基本的には江戸幕府で働いていた人間も使った
           3、四民平等
               選挙権は男子のみで税収に比例した重み
               のちにこれは”五民”平等になる(外地であろうと関係ない)
               ←これには批判を生んだが結局経済規模が違いすぎるので大きな不満にはならなかった
           4、統一貨幣制度と徹底した資本主義
               →共産主義への防波堤としての期待ものちになる
           5、教育制度の一本化、資格化
               女子教育はすでに世界一の水準
               最高級の研究レベル
               ←吉宗以来の実利学問の重視がいかされる
           6、近代軍隊の再整備
               旧士族が多かった、志願制で給料は高め
               のちに外地民のあこがれの職業となる
           7、信仰の自由
               神道、仏教、キリスト教、イスラム教、他の宗教が場所を問わず信仰可能となった
           8、移民の受け入れ
               この地方では唯一といっていいほど平和で豊かな国だったので移民が殺到した
               国民の反発はあったが政府レベルでは積極的に受け入れた
               ←3Kの仕事につかされることも多かった

  • 最終更新:2016-08-22 02:39:35

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